「ウソ!!」
不意にフランソワーズの足が止まった。
隣りを歩いているアルベルトは彼女のその小さな異変に気づき
彼女の視線の先を追って見る。
見慣れた色の髪をした青年が、若い女性と話をしている。
(また、アイツは地雷を踏むような真似を・・・。
彼女はしっかり見ちまったようだが、さて、どうしたものか・・・)
彼は一瞬の間にコレだけのことを考えると、やっぱり、知らぬ振りを決め込み、
「ん?どうした、フランソワーズ?」
とだけ、問う。もちろん、彼女が今見たモノを無視するだろうコトは予測がついている。
「え?あ、なんでもないわ。知り合いに似たヒトがいたものだから・・・
でも、人違いだったみたい。」
(そうじゃないだろ?)内心ではそう思いながらも、
「へぇ、キミでもそんなことがあるんだ。」
アルベルトは、そう言っておどけたように笑う。
「あら、キミでもとは、ゴアイサツね。それくらいのこと、私だってあるわよ。」
拗ねたように唇を少しだけ尖らせた彼女の表情は結構カワイイ。
(こんな表情、アイツ以外の男には、まず滅多に見せないんだろうな・・・。
ま、今日のところは役得ってトコか)
「おや、そうかい。ソイツは失礼。
で、姫様、次はどちらで、お買い物で?」
グレート張りの大仰な口ぶりに、フランソワーズは思わずクスリと微笑み
「次は、あそこのお米屋さんでお米を50キロほど・・・」
と、これまた大仰な口ぶりで答える。
傍から見れば、仲の良い恋人たちが買い物をしているようにも見えるが
(実際買ったものを見ると、やけに所帯染みた内容なのだが・・・)
彼女の心はすでに、違うところに在るのをアルベルトは知っていた。
(ったく、・・・)
本来なら、フランソワーズの買い物のナイト役はジョーと相場が決まっている。
何時の間にか、暗黙の了解事項となっているのだった。
だが、今日はたまたま、ジョーがレーシングチームに呼び出されてしまい、
昨日から研究所にやってきていたアルベルトが代役という事になったのだった。
アルベルトにしてみれば、久しぶりに「妹(恋人として、というのはすでに望むべくもない事を、彼も知っていたので)」とのデートを楽しむつもりでいたのだが、トンだ邪魔がはいってしまった。
(彼女の兄も、時々こんな思いをさせられたのだろうか?)などと、話でしか聞いたことのない、彼女の兄に同情するのだった。
(ジョーのヤツ、今晩帰ってきたらフランソワーズになんて言い訳するんだろうか?)
可愛い妹を持って行かれた寂しい兄貴の、せめてもの慰みのように、そんな野次馬根性的興味を覚えたアルベルトは、ジョーの言い訳についてイロイロと考えてみる。しかし、なんだかジェットみたいな事をしている・・・とジェットが知ったら一応は怒りそうな事を思いアルベルトは想像するのを止めた。
米屋で米の配送を頼み、その他の今日の用事を全て済ますと、彼らは帰路についた。米屋を出て以来、黙りがちだったフランソワーズはアルベルトの運転する車の助手席に座ると、今度は矢のような勢いで喋り始めた。
その、あまりの変わり様に流石のアルベルトも(本当に、クルクルと良く変わる娘だな)と舌をまくのだった。しかし、その目は運転中のため彼女の方を見る事はなかったが、優しい光を帯びていた。
(やっぱり、フランソワーズは、そうやって明るい表情をしているのが一番似合っている。)
* * * *
翌日も、翌々日も、普段と変わる事のない時間が流れた。
ただ、二日ともジョーが一人で出かけていったのを除いて。
あの日、ジョーは夕食に少し遅れただけで、いつもと変わったところなどミジンも感じさせない様子で帰ってきた。
フランソワーズはというと、これまたいつもと変わることなく皆(もちろん、ジョーも含めて)に接している様に見える。
いや、それはうわべだけのコトで、実際は・・・。
あの日から3日目の夜、アルベルトは偶然見てしまったのだ。深夜、フランソワーズの部屋の前に立つジョーの姿。閉じられたドアの前で、部屋の中にいると思われる彼女と二言三言交わした後、自分の部屋へ戻っていく彼の姿を。(心なしか、元気が無かったように見えたのは、オレの思い込みのせいか・・・?)
「よう、ちょっといいか?」
秘蔵のスコッチウィスキーを持って、アルベルトがジョーの部屋を訪れたのは、それから少し経ってからの事である。
「珍しいね、君が僕の部屋に酒を持ってやって来るなんて・・・」
「そうか?たまにはおまえと差しで呑むのもいいかと思ってな。」
「ふーん。でも、僕、あんまり飲まないからロクなつまみも無いよ。」
フフンと鼻で笑うと、アルベルトは懐からビーフジャーキーとチーズを取り出した。
「手回しイイね。」
アルベルトを部屋に招じ入れると、ジョーはグラスを2つ出してきて彼に渡す。
ジョーが持ってきたアイスペールから氷を取って2つのグラスに入れるとスコッチを其々に注ぐ。
「お前は水割りだったけな?」
「うん。」
「相変わらず、酒弱いのか。ちったぁ鍛えて強くなれ。」
「ずいぶんだなぁ。僕は鍛えてまでお酒に強くなろうだなんて・・・」
シングルよりもやや薄い水割りを半分ほど飲んだ頃、ジョーがやおら切り出した。
「さっき・・・。見てたろ?」
いきなりのことだったので、咽せかえるアルベルトに、ジョーは更に言う。
「だから、僕の部屋に来た。違う?」
(さすがは、009、だな。やはり気づいていたか。)そうは思ったものの、アルベルトはそれをおくびにも出さずに聞き返す。
「なんのことだ?」
「とぼけなくたっていいよ。」
「彼女の部屋の前にいるところ、見てたろ?」
暫くの間沈黙が続いた後、アルベルトがぽつりと言う。
「3日前、K街に買い物に行ったんだ、オレとフランソワーズ。
お前がチームから呼び出されて出かけた日だよ。」
「それで・・・。だからなんだ。」
「納得、いったか?」
「ああ。」
「ちゃんと、彼女に話してやれよ。」
「君は、聞かないのかい?」
「オレは、あの時見ていなかったコトになってるしな・・・。」
さて、寝るとするか・・・と立ち上がりドアの方に行きかけたアルベルトは思い出したようにジョーを振り返る。
「彼女を泣かせるなよ。もし、お前が彼女を泣かせるようなら、その時は彼女を掻っ攫うからなっ!」
「え?」
「って、ジェットだったらそう言うだろうな。ハハハ。」
「アルベルト、君は・・・」思いついたように言うジョーの鼻先に、アルベルトは一発寸止めをかましながら
「フランソワーズは、オレの大事な妹みたいなモンだ。
泣かせるようなヤツがいたら、オレはソイツをぶん殴ってやる。」
ニヤリと笑った。
「ソイツがたとえ、お前でもな・・・。
じゃぁな。お前も早く寝ろよ。」
* * * *
翌日は、ここ数日と様子が違っていた。
ここのところ朝から外出していたジョーは昼になっても研究所にいた。4日前のこともあり、いくら表向きは普段通りに接していたと言っても、やはり、気詰まりだったのだろう、フランソワーズは昼食を終えるとさっさと自室に引っ込んでしまった。リビングに取り残されたジョーはアルベルトと顔を見合わせ、溜息をついた。やがて、ジョーも、
「ちょっと出かけてくる。お茶の時間には戻るから・・・。」
とアルベルトに言い置いて出かけて行った。
ジョーの車のエンジン音が遠ざかるのを聞きつけたフランソワーズは、リビングに顔を出した。
「ジョーは?」
「用事があるようだ。でも、お茶の時間には戻ってくると言っていたがな。」
「そう・・・。」
そう言って深く溜息をついたフランソワーズの横顔を、アルベルトは少しだけ気遣わしげに見遣る。
(まさに、恋する乙女の顔ってヤツだな・・・。まぁ、ヤツの事だから心配にゃぁ及ぶまいが。
それにしても、あんまり、フランソワーズがこんな顔している様なら、ここはやっぱり一発ぶん殴るべきなんだろうか・・・。)しかし・・・、そう思ったアルベルトは、わざと気軽い様子で、
「ちょっと出てくる。」と立ちあがった。
「あら、あなたまで?もう30分もしたらお茶にしようと思っていたのに・・・。」
「予約してあった画集が、今日届いている筈なんだ。思い出したら一刻も早く見たくってな。
夕飯は、あっちで食ってくる。なんせ都心の書店に頼んじまったもんだから・・・」
アルベルトが出かけしまうと、研究所に残っているのはフランソワーズ一人。
ボーっとしているのも時間の無駄だからと、お気に入りの紅茶を淹れてテーブルに就いた。
いつもは賑やかな研究所も、一人でいると不気味なくらいに静かだ。
ただ、波の音が耳につくだけ。
普段なら心地よく感じたり、全然気にも留めなかったり、そんな身近な音なのに、今は途方もなく恐ろしい音に聞こえる。
不安な気持ちがそれを増幅している、そんな風にもフランソワーズには思える。
(ジョーは、私がここで、こんな思いをしている事も知らずにいるのかしら?
この前のあのヒトと一緒にいるのかしら?
最近出かける事が多いのも、あのヒトと会っているからなのかしら?)
後から後からわいてくる疑念に、(私って、こんなイヤな女だったの?私、ジョーの事を信じているんじゃなかったの?)と思いつつも、フランソワーズはそれに身を任せる他に術は無かった。
「フラン・・・。」
突然の声に振りかえると、そこにはジョーが立っていた。
「え?あ、お帰りなさい。今、お茶淹れるから・・・。」
慌てて拭った涙の痕に気づかれまいと、ジョーに顔を背けるようにして立ち上がりキッチンへ向かう。
ジョーはすれ違いざまに、その腕を掴んで引き寄せ瞳を覗きこんだ。
「どうして、全部自分で抱え込むの?」
「!?」
「僕に聞きたい事や言いたい事があるんじゃないの?」
「・・・・」
ジョーに図星を差されてフランソワーズは言葉が出ない。
「じゃ、僕から・・・」
ずっと後ろに回していた左手を前に出すと、花束が握られていた。
「これを、キミに・・・」
黄色い、小さな星をブーケにしたような、そんな花束。
「?ミモザの花・・・」
「この花を、今日キミにあげたくって、あちこちの花屋さんを探しまわっていたんだ。」
ジョーは、4日前、イタリア人のチームメイトからとある話を聞かされてから、「ぜひとも!」という思いでミモザの花を探し回ったという。
「だけどさ、気がついたら僕、ミモザの花がどんな花かも知らなかったんだ。
それで、ちょうど通りかかった女の子を呼びとめて聞いてみたんだ。ついでに売っていそうな店まで教えてもらって・・・。」
(ああ、私が見かけたのはこの時だったのね。)そう思いながらも
「でも、どうして、その子に聞こうって思ったの?」
と、問うと、
「その子、いけばな教室の帰りだったらしくってさ、花を抱えていたんだよ。
それで、この子なら知っているんじゃないかって思ったのさ。」と、タネ明かしをした。
「それに、なんで、ミモザの花なの?」
「イタリアでは、3月8日には、男性が日頃お世話になっている女性に感謝を込めてミモザの花を贈る、『Festa della Donna』という習慣があるんだ。」
でも、日本じゃまだあまり知られていないらしくって、売っている花屋を探すのに3日も街を歩き回る羽目になったよ・・・と、ジョーは苦笑いをする。
「それで・・・」
「いや、それだけじゃないよ。ミモザの花言葉、知ってる?」
「ううん。」
「『秘めた愛』と『真実の愛』」
「ジョー・・・」
フランソワーズの瞳から大粒の涙が溢れる。
「だから、絶対にキミにこの花をあげたいって・・・。
バレンタインデーじゃ、皆と同じみたいだから・・・。
受けとってもらえる、フラン?」
「ええ、喜んで・・・。
ありがとう、ジョー・・・」
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2003/03/08